小幡英之助

小幡英之助

2017年歯科祭の動画公開しております。

我が国歯科医の鼻祖である小幡英之助先生は、明治8年に前人未踏の「歯科免許制度」制定を請願し、自ら受験され歯科開業免許第一号の取得者であります。

このような近代歯科医学先駆者の業績と遺徳を顕彰するため、日本歯科医師会は昭和12年、この地に銅像を建立したが、国策にそって供出し、現代の立銅像は昭和41年5月に再建され、そのとき小公園ができました。

概要

小幡(おばた)英之助は1850(嘉永3)年、豊前中津殿町で生まれた。この年はペリーが浦賀に来航する3年前である。父は孫(まご)兵衛といい、服部五郎兵衛の二男で、小幡篤蔵(とくぞう)の養子となった。母は小幡篤蔵の末妹アキである。英之助が3歳の時に篤蔵が病死したため、叔父篤(とく)次郎(11歳)も父 孫兵衛の世話になった。父 孫兵衛の弟 復四郎に福沢諭吉の姉鐘が嫁いでいる。

英之助7歳の時に藩校 進脩館に学び、文武両道に精進した。進脩館生活の末期には叔父 篤次郎は早くも塾頭に進んでいた。英之助15歳の時に長州討伐に従軍。長州から帰ってからは中津藩医の宅に通って医学の手ほどきを受けた。明治2年春 20歳の時に、中上川(なかみがわ)彦次郎(福沢の甥で英之助より4歳年下)と共に慶應義塾の塾長であった篤次郎を頼って5月9日入塾した。

叔父 篤次郎は英之助を医学の道に進めさせたい意向を持っていて、中津藩出身で慶應義塾にもいたことがある佐野諒元(りょうげん)という医師が篤次郎名義の家屋を購入して開業したので、英之助の一身を依頼し、遂に代診生となった。篤次郎は英之助が外科医に向いていると見、横浜の西洋医 近藤良(りょう)薫(くん)に師事させた。英之助は十全(じゅうぜん)病院(横浜市立大学医学部の前身)にも出入りして本邦近代医学の先達の一人、米医D・Bシモンズの教えも受けた。

ある時、近藤先生の書函が破損したので、これを英之助が器用に修理したところ、近藤とその弟で医師の近藤担平が激賞した。手先の器用さに二人から固く説き勧められて前人未踏の歯科医学を学ぶことを決心した。叔父 篤次郎に諮ったところ、“士人の業にあらず”と反対した。当時は非近代的な口中科と入れ歯師の時代である。塾友だった坪井仙次郎の奔走を得、さらに近藤担平が篤次郎に、歯科医業は将来有望であること、英之助の技能がこれに恰好である理由を詳しく説明してもらい、その承諾を得た。近藤良薫が治療を受けたことのある米国医師・歯科医のジョージ・エリオットの下で、近藤家から通院することを条件に西洋歯科学を修めることとなった(この時英之助22歳)。

<医術開業試験>

エリオットが上海に移転した為、英之助は独立開業の許可を得、エリオットは開業に必要な機材をアメリカに注文してくれた。英之助が開業準備をしている時、明治7年8月18日に東京、京都、大阪の三府へ医師の新規開業への新制度「医制」が布達され、新たに医師を志す者に対して医術開業試験を課した。当時は歯科という分野はなく口中科という事であった。自分が勉強した西洋歯科医学は従来から街にある「口中科」とは全く別物で、アメリカの様に「歯科試験」を要求した。幸い試験を取り扱っていた東京医学校(現 東京大学)の校長 長与(ながよ)専斎(福沢諭吉と適塾で同門であった)は諸教授と諮って我が国開闢(びゃく)以来初めての歯科専門試験が行われた。試験は明治8年4月であろう。

英之助は開業免許第四号(京都が先にあった)、東京での第一番目の免許授与者である。

「歯科 小幡英之助」と独立した「歯科」として免許が下付された故、英之助をして歯科医師の鼻祖(始祖)とするゆえんである。明治17年に歯科医籍が創設されるまでは医籍で登録されている。

 

<開業>

明治8年の夏、東京京橋区采(うる)米(め)町にて開業、英之助は門戸を開いて知識を分かつことを惜しまなかったので、門下生は常に十数人に上っていた。

 

<小幡門下生―中津は「歯科医の生産地」>

明治10年前後は、士族の二、三男は職がなく困っていた。金銭に余裕がある者は東京に出て慶應義塾に入るか、そうでない者は、近代西洋歯科医を目指して小幡先生の門下生となる者が多かった。当時は医師・弁護士も独学で資格を取るのが普通で、明治23年に高山歯科医学院ができるまでは学校らしき制度はなかったからだ。小幡先生の直弟子から子弟子へ、そして孫弟子まで、小幡門下生は全国各地に広がっていった。歯科の団体結成並びに歯科学会は小幡門下を中心にできたと言っても過言ではない。

 

<終焉>

明治42年4月26日 脳出血により死去、享年60歳。

全国の小幡門下生並びに大分県歯科医師会は日本歯科医師会等の後援を得て、先生の出身地である中津の城公園に昭和12年5月18日に銅像を建立してその遺徳を偲んだ。戦時下の金属供出に遭い現在の銅像は昭和41年に再建されたものである。

『没後100年小幡英之助先生顕彰歯科祭記念誌』中津歯科医師会 平成21年

『小幡英之助先生』今田見信 昭和15年

 銅像  日本彫塑会員  溝口 寛
 石匠  甲府  望月 光治
 題字  元貴族員議員  門野 幾之進
 撰文  元帝国学士院会員  佐々木信綱